Crypt Scrypt

monogoto

ジェンダー

 女性の権利に対する意識が高いのかといえば、特別そんなことは無く、性的マイノリティに対する言論への違和感から、関心を持った面がある。以前、書いたが「LGBT---」というまとめ方がしっくりこないのだが、どうにも杜撰な心理学的アプローチのせいで、用語ばかりが独り歩きしている。

 問題が解決しないまま、ノンバイナリーだのAセクだのジェンダーフルイドだのといった用語が増えていく状況にある中で、パーソナリティの形成や科学的知見の蓄積抜きで無暗にそうした概念に飛びつくのは、開明的態度というより、知的怠惰じゃないかとすら思う。しまいには、性自認の自己申告に自意識過剰なナルチシズムすら嗅ぎ取ってしまう。性的指向の神聖化は無意味である。

 

 トランスジェンダーの受容を巡って実際に起こっているトラブルは、主に女性のテリトリーに関わる問題が多い。何年か前にトランス差別的言動を巡る言動から、J・K・ローリングが叩かれていたが、「トランス排除的ラディカルフェミニズム」という用語を耳にする機会はそれほどない。これが蔑称だとして、「ジェンダー・クリティカル」が自称されることもあるようだが、問題の要点は、「女性の定義と権利」にある。当然ながら、権利の受容は定義によって変わる。

 手術後、性別の変更が可能な法律があると、女性としての権利を要求するトランス女性が出てくるのは必然なのだが、法律に絶対的な意味はない。

 「性自認」というのは、他者の懐疑心を封じ込める魔法の言葉か何だろうか?人の在り方として受け入れるかどうかはともかく、トランスジェンダーを自認していた人が、手術をした後に、実は「性自認」が勘違いだったケースを考えると、人生を狂わせる危険性すらあるかもしれない。

 子供の頃、ニューハーフブームが短期間あったと思うが、その頃の方が今よりも緩い空気だったと思う。メディアが比較的キレイな人を取りあげていたせいもあったのだろうか。最近は、ルッキズムに関してもごちゃごちゃ言われるようになってきたが、外見が重要な判断基準になることの反証とも言える。

 

 現在は、「性別適合手術」と呼ばれているものも、かつては「性転換手術」と呼ばれていた。子供の頃は、無知だったので、本当に性別が切り替わるものと思っていたが、実際のところ、手術によって身体的性別が完全に異性に変化することはない。そのうち遺伝的レベルで染色体すら変更出来るようになるかもしれないが、そのうち可能になるという保証もない。医療技術の発展によって、可能になることも増えるだろうが、現時点では、手術後に元に戻す技術すらない。「男性」の身体になっても生理が残るし、

 手術をする前に、異性として生きるシミュレーションが経験出来れば、リスクは軽減出来るかもしれない。演劇方面からアプローチ出来ることが無いだろうか?そもそも人のメンタリティなんて立ち位置で変わってしまうのだ。憧れたものが想像通りとは限らない。そもそも性分化の過程が生後10年以上続くことすら周知されていないのであれば、医学的教養の一般レベルを引き上げた方が良くないだろうか?

 

 「LGBT」ムーブメントの傍流で演技に関して当事者が演じるべきだという主張がされることがあるが、これに関しては賛同しかねる。演劇理論自体が複数あって、それぞれ利点も欠点もあるだろう。メソッド演技のリスクが指摘されることも増えてきたが、当事者が演じなければならないとしたら、レイプ殺人鬼の役なんかは、本物の犯罪者を起用することになる。さらに理論をブラックユーモアでごり押しすると他殺体は他殺体が演じるべきなので、スラッシャー映画はスナッフフィルムになってしまう。

 勿論、当事者が演じることで説得力が生まれることはあるだろうが、「当事者が演じるべき」という強制命題になると、アンドロイドと人が役割を交代して演じることも出来なくなる。芸術論や文化がポリコレ論に引っ掻き回される状況がここ数年続いているが、表現規制に関して「フェミニズム」からのクレームが物議をかもすことも少なくない。

 

 現在のフェミニズムを巡る言論空間で混乱と対立が生じている上に政治的イデオロギー闘争まで投影されているせいで色々面倒くさいことになっているが、それらを「多様性」というキーワードでお茶を濁すのは、一種の問題回避じゃないだろうか。とはいえ、現在の「女性観」が統一性を失いつつあるのは、女性の人権が向上した結果かもしれない。自由度が増した分、統御も失われる。

 「男性らしさ/女性らしさ」、この言葉にいちゃもんをつける人も増えてきたが、実のところ反動的な保守性も生じているように見える。歴史的に差別されてきたからといって、女性の大半が性差の消滅を心の底から望んでいるのか疑問に感じることだってある。肉体労働の現場で女性が現場に入ることもあったが、キツイ重労働は任せづらい。筋肉ムキムキのゴリラみたいな女ばかりならば、遠慮しなくても済むのだが、貧弱な身体つきの女子なんかはマジで扱いに困る。一度、パティシエの子にあったことがあるが、人手不足を埋める隙間産業の日雇い派遣業界はミスマッチな手配がなくならない。  「社会的分業」に性差を持ち込むとクレームが出るのだが、正直ゼロを目指す必要はないと思う。異性を排除しないことと男女比率を強引に操作することは別である。評価が公正であれば、男女比に拘る必要はない。

 科学の世界だと不当な評価をされてきた女性研究者が大勢いるが、フェミニズム視点の抗議より、業績の正当な評価こそが望まれる。ロザリンド・フランクリンに名誉を与えるのは、彼女が受けた差別ではなく、その研究内容である。ヘンリエッタ・リーヴィットが気になるのは、天文学に対する彼女の貢献に興味があったからだ。

 

 第一次世界大戦時に大量の男性が動員された為、女性が労働力として駆り出された結果、女性の人権が向上した経緯があるが、国際的な女性解放運動は分断されることになった。歴史的に言って軍事が常に女性の地位向上を助けてきたかと言えば、おそらくそんなことはない。

 アメリカでは女性兵士が増えているようだが、徴兵制のある韓国では女性に徴兵制が適用されないことに不満を抱える男子が増えていると聞く。日韓併合時代の従軍慰安婦問題が政治問題化されるほど、米軍慰安婦は問題にされていないのは、それこそ政治的理由だろうが、そもそも女性の権利が軽視されてきた事情を見ると、フェミニズムの観点から掘り下げた方が見えてくるものが多いかもしれない。

 

 そういえば、最近も自衛隊内の性被害事件(冤罪)が話題になったが、罪を着せられた男性隊員に同情してしまう。あの冤罪事件は、近年流行した#MeToo運動の流れに呼応した形なのかもしれないが、結果として泥を塗ることになったのかもしれない。「性被害」に作り話が混ざっている可能性が浮上してくるからだ。

 ジャーナリストの伊藤詩織が起こした訴訟は、性的暴行に関わるものだったが、相手が安倍総理に近い人物だったせいで、初期は政治問題の文脈で語られることが多かった。当時の自分は政争の言論空間に食傷していたので、この訴訟に関しても距離を置いてみていたのだが、係争中の案件についてどれだけ口を出していいのか未だに分からない。

 元しばき隊の菅野完の案件や都知事選の時に話題になった鳥越俊太郎の女性問題なども政治的次元に還元されることが多いが、政治的バイアスがかかると問題の本質からずれることがある。結果として、極分解する政治的言論から距離を置くことになったが、それ自体は良かったと思う。

 相模原障碍者施設大量殺人事件が起こった時、植松聖が安倍晋三に宛てた手紙が話題になったが、それを根拠に政治的なヘイトクライムと見做す向きがあった。文章を読んだ所感としては、思い込みの激しいイかれた思考に陥っているだけで安倍首相は本質的に関係ないという感想だった。

 その安倍晋三も殺された訳だが、あの暗殺事件も初期は政治的バイアスで語られることが多かったように思う。今は自民党統一教会の関係に話題がシフトしていったが、認知バイアスの歪みに気を付けていないと、色々と拗らせるだけである。

 

 ジェンダーの問題から反れてしまったが、ついでなので今度の新宿区長選について触れておこう。立候補したよだかれんが「トランス女性」だからだ。候補者が二人しかいないので、比較はしやすい筈なのだが、自分にとってはトランスジェンダーは困惑する要素なので、一種のノイズに思えた。政治的立場も多少はチェックしたが、そもそもシンパシーより議論に重点を置く体質なので、政策だけ見ても、もはやピンとこないのである。区の業務を一人でこなす訳ではないし、どのみち、どんな仕事もすり合わせは必要なのだ。宇都宮けんじが応援してたので気にはなったのだが、今回は投票しなかった。

 一方、吉住健一のことをよく知っているかと言われたら、そうでもないのだが、よだかれんがトランス女性ではなく、女性だったら投票した可能性がなかったのか考えてしまう。これは在り得たかもしれない。

 最初の方で触れたが、トランス女性に一般女性のテリトリーに侵入する権利があるのか疑問であり、政治的要請によって女性のテリトリーが荒らされる可能性が頭をよぎった。元々、セクシャルテリトリーは、生物的性別に依拠しているのであって、内面の問題に還元して合理化するのは限界があるのではないかと思う。女性が誰も気にしないで受け入れるような社会であれば、トランス女性のことなど気にする必要はないのだが、苦情に道理がないかと言えばそうでもない。

 こういう書き方は、「トランス排除的」と言われるだろうが、正直言って、トランス女性を女性とみなしていないので、あえて否定する気もない。トランス女性の中にも完全に女性になれる訳ではないことを受け入れている人たちがいるので、ユニバーサルトイレのように緩衝地帯になりうるグレイゾーンが必要になるのかもしれない。

 

 本来、性別だけで投票を決める趣味は無いのだが、今度の区長選は、選択肢が少なすぎる割に、バランスが悪くないだろうか?いっそ、宇都宮けんじ自身が立候補してくれた方がマシだったかもしれない。もはや、彼は高齢過ぎて、次の都知事選に出馬しても投票する気になれないからだ。

 よだかれんの事務所の所在地が地元の高田馬場なので、どこかで見かけることもあるかもしれないが、話したことも無いので本人の人柄など判断しようがない。別にことさら侮辱を加える気もない。気になったのは、経済学者の安富歩と親交があるということ。

 安富歩もトランス女性(手術の有無は不明)で、いつだったか、それについて書いてた本人の記事を読んだ記憶があるのだが、「性別適合手術」という呼び方や「生殖能力」がないことに関連付けて、「トランス女性=女性」という点に疑問を呈していたと思う。おそらく本人も葛藤があるのだろうが、問題は「差別」なのだと。

 例えば、政治的立場をチェックシートを使ってマッチする候補者が選ばれるよう仕組みであれば、名前も顔も性別も要らないことになる。社会心理学の実験としては、面白いかもしれない。おそらく、候補者を選択する時、政策以外の要素が判断基準として強く働いているだろうから。実際のところ、候補者を正確に比較することは不可能かもしれない。

 

 性スペクトラムの問題はもう少し踏み込んでも良いのだが、後回しで良いと思ってる。教養課題としてはフェミニズムの方が優先度が高い。

 #MeToo運動に関連した著作で『男性性の探求』(ラファエル・リオジエ著)という本を最近読んだのだが、ところどころ引っかかるところがあって、シンパシーよりも疑問が多く残ってしまった。訳者も触れていたが、西欧流の普遍主義についての苦情は尤もに思えた。いや、正直言いうと『ファイト・クラブ』の去勢コンプレックスの方にシンパシーを感じる自分がいるのだ。

 反動なのか分からないが、日本のジェンダー史に興味が移ったので、『性差の日本史』という新書を読んでみた。男女平等だった古代から中世の儒教・仏教の影響による男尊女卑の導入、近世に入って芸能から女性を排除した経緯など、欧米の文脈で語られるフェミズムとは違った掘り下げ方が出来ると思う。

 近代化と結びつけられることもある女性解放だが、産業革命による分業体制は、それまで協業だった農民の生活に、ジェンダー差別を生み出したとも言われる。社会的・政治的制度によって生じる構造は、「男性」の意識を変えることで男女格差が解消改されるなどと期待しない方が良い。権力構造は、階級社会の問題でもあるからだ。下層階級は暴動かストライキでも起こさない限り無力である。クーデターや革命によって、世の中が良くなる保証も無い。ウガンダのイディ・アミンのように革命家が最悪の独裁者になることだってある

 

 政治的次元で男女の格差是正措置は必要かもしれないが、階級的経済格差を無視して男女差別だけフォーカスすると下層のルサンチマンはかえって拗れることにならないだろうか。フェミニズムの歴史でも、経済的分断や人種的分断が割り込んでくることがある。

 フランス革命期のフェミニストにオランプ・ド・グージェがいるが、彼女の場合、身分階級に関しては保守的な考えの持ち主だと言われている。「普遍的人権」から締め出された女性に関して権利を主張したことはともかく、下層の女性が味わう辛酸について想像したことが無かったのだろうか?

 「普遍的人権」と「経済的不平等」の不均衡な関係は今でも再生産されているように見えるが、コロナ禍の日本で若い女性に貧困の問題がのしかかっていることを考えると、フェミニズムの内輪もめも違ったベクトルに向かえば良いと思う。法が権利を保証しても貧困は自由を打ち消す。残念ながら、それが現実だ。

 女性解放闘争の方法論をめぐってフェミニズムの歴史でも分断はあった訳だが、女性参政権を求めて過激な闘争(爆弾テロなど)を行ったエメリン・パンクハーストを描いた映画が気になっている。『未来を花束にして』。

 

 現代の女性について考える資料としてなかなか面白いと思った本を一つ紹介。

 

■『話すことを選んだ女性たち 60人の社会・政・家・自立・暴力』

アナスタシア・ミコバ、ヤン・アルテュス=ベルトラン

 

 この本に統制された女性観のようなものは無いのだが、それぞれの女性が生きてきた背景や社会的条件の中で形作られる価値観が個人の言葉を通して述べられている資料はは意外と少ないかもしれない。のっぺりした理念からは決して見えてこない実存的響きが感じられる。複数の声は必ずしも同調する訳ではないが、結局のところ不条理な世界に生きているのだから、思考だけ整理しても何かが解決するわけではない。

Midjourney

 話題になっていたMidjourneyを利用してみた。幾つか作成したものを載せてみる。多分、面白いといえば、面白いのだが、特に充実感や達成感は得られなかった。無料で使える分は使い切ってしまったが、使い続けるかは決めてない。

 絵描きのアイデンティティを脅かす面があるのは否定しがたいが、コツを学ばないと、イメージをコントロールするのは難しいかもしれない。一週間位、使い込めば、幅も広がるだろうと思う。

 利用するのに抵抗を覚える人は勿論いるだろうが、絵心が無い人より、美術に詳しい人の方がイメージを作りやすいかもしれない。Photoshopのように高機能な画像編集ソフトが絵作りの方式を変えてしまったように、補完的なツールとして定着するかもしれない。

 CGも今でこそ定着しているが、20年位前のイラスト業界だと、批判的な意見も散見されてたと思う。テレビゲームはもっと前から定着していたのに、変な話だと思うかもしれないが、パソコンの普及率が急激に上がったのがwindows95以降で、それ以前だとパソコン使ってない絵描きが普通だったのだ。ただ、プロのイラストレーターなんかはマッキントッシュ派が多かったと思う。

 電話回線を使った通信速度なんて本当にひどいものだったし、ハードディスクの容量も大したことなかった。今は基本的な条件が全然違う。10年後にはAI画像なんて当たり前のツールとして利用されてると思う。法整備より先に技術革新が起きてしまうと、色々ややこしい話になりそうだが、状況が変化していくのが確定的ならば、先に使い方を習熟した方が得なのかもしれない。訴訟問題が起こる可能性が無いとは言えないが。画像合成技術で他人の著作物を利用する行為は、大分前から行われていると思う。

 

 ただ、「絵作り」の方法論が完全に切り替わるとか言われると、そうでもないだろうと思う。Midjourneyを使ってみて分かったのは、一見よく見えるけど、絵として見ると穴やノイズが多い画像も少なくないってこと。それが面白く見えることもあるかもしれないが、修正や微調整に関しては、絵心ある人の方が有利だと思う。ただし、頭の中にあるイメージを忠実に再現してくれる保証は無い気がする。人には通じる文章をAIがきちんとくみ取ってくれる訳でもない。

 プロの絵描きやグラフィックデザイナーがアイデアに困った時に遊ぶのには良いかもしれない。画風に関しては、美術や写真に詳しい方が強いと思う。自分の作風とかけ離れたものや普段描かないモチーフを取り込むのも良いかもしれない。自分ならば、イメージを攪拌するのに利用すると思う。しかしながら、出来上がった画像を自分の作品だとは全く思えない。

 

 画像作成時、実際は英語を使っていたが、あまり反映された気がしないキーワードも多かった。なので、書いてあるキーワードはただの「例」

 

ミュシャのスタイル、黒いドレスを着たイザベル・アジャーニノートルダム宮殿

■サルガドのスタイル、マチュピチュ遺跡、傘をさした芸者

■サルガドのスタイル、UFO、盲目の老人、古代の遺跡

■モノクロ、満月、空飛ぶクラゲ、巨大なカマキリ

ターナーのスタイル、ヒマラヤ山脈ラヴクラフト、虚空の眼

タルコフスキーのスタイル、廃墟、キノコの森、女性

女性の権利とその周辺

 最近やたらとLGBTのことが話題になるが、トランスジェンダーの受容をめぐって、少々混乱した状況になっている。個人的に腑に落ちないことも多いので、少し整理しようかと思っていたが、それほど詳しくも無いので、とりあえず、フェミニズムの歴史を軽く掘り下げてみようかと思う。

 トランスジェンダー批判の一つとして、女性の権利が侵害されているというものがあるが、「男と女」という伝統的な境界線上でノイズになっているのは間違いない。「トランス排除的ラディカルフェミニスト」(TERF)という用語はそれほど一般に浸透してはいないが、実を言えば「LGBT」という用語もしっくりこないのだ。

 LGBは性的指向によって定義されるが、Tはそうではない。パーソナリティの要素ではなく「人」を指すものとして扱えということなのだろうが、そもそも、LGBの中にトランス傾向のある人とそうでない人がいると思われる。最近はあまり使われないが、「オカマ」という用語はゲイと「トランス女性」両方を含んでいたように思う。厳密に分けないのがおかしいというより、混ざりあっていたと見るべきか。

 

 現在、スポーツ界で問題視されているのが、女性の競技における「トランス女性」の参加をめぐる問題。擁護と排除の両方が存在するが、業界全体が戸惑っている状況だと思う。血清中のテストステロンが基準にされたりもするが、これもどうなんだろうと思う。「性別適合手術」というのは、一種の成形手術であって、染色体も生殖能力が異性に変化することを意味してはいない。あれは言わば「擬態」である。そのうち、遺伝的レベルの改造手術も可能になるかもしれないが、現時点では違う。

 テストステロンが公平さの絶対的基準になるなら、科学的な検査で階級分けするのが一番合理的という話にならないだろうか?ひょっとしたら、将来的にはそういう可能性も出てくるかもしれない。

 

 そもそも、男女の競技が分かれているのは、差別的措置である。「区別」ではない。男女の身体的な能力差を「前提」としているからだ。ただし、その目的は「公平さ」にある。「公平性の為の差別的措置」と書くと何やら矛盾した響きだが、格闘技における階級差なども、一種の公平性を志向している。競技なんだから、闘って優劣を決めればいいという主張も可能だろうが、細分化によって活躍の機会が与えられる選手も当然いる。

 確実に不利な競技で体格差や階級差を撥ね退けるような活躍が痛快なのは、困難なこと成し遂げているからこそだ。

 

 ジェンダーレス志向の言説には、生来的な男女差というものを否定したがるものも混ざっているが、「身体的性=SEX」が「文化的性=ジェンダー」によって規定されたフィクションに過ぎないとすると、そもそも競技を男女で分ける必要が無いことにならないだろうか?スポーツは本質的に差別的ベクトルが存在する。だからこそ条件の公平さが問われる。

 

 古代オリンピックの場合、男しか参加出来ない祭典だが、言うまでもなく男尊女卑である。古代ギリシアで同性愛(少年愛)が盛んだったことを考えると、ゲイの選手も参加していたと思われる。

 近代オリンピックでも、女性の参加が認められたのは、第2回からで、それも初期に参加できる競技は今よりもはるかに少なかった。とはいえ、これはスポーツという枠で考えることではない。

 

 女性の権利闘争に関する入門書で『ウーマン・イン・バトル』という漫画があったので図書館で借りてみた。政治にさほど関心が無い人やあまり読書しない人でも気軽に読めると思う。全然知らないよりは読んだ方が良いと思う。特に女性は。重大な政治問題より美容に気を遣うような女性が多いのでは、闘って権利を勝ち取った先人は報われまい。

 

 サフラジェットなんかは、過激な社会運動が持つ意味について疑問も感じてしまうのだが、イギリスで女性参政権が成立するまでの社会的な動向として外せない話だとは思う。まあ、女権運動のパイオニアは多かれ少なかれラディカルだったろうと思う。

 女性参政権の成立についてには、各国でばらつきがあるが、100年経過してない国の方が多い。漫画にも描かれていたが、タリバン支配下アフガニスタンのように後退することもある。

 女性の権利の後退というのは、先進国でも絵空事ではない。「カトリックVSリベラル」、「共和党VS民主党」といったイデオロギー闘争のように語られることが多い中絶禁止問題だが、マーガレット・サンガーのエピソードを読むと女性の権利という形でとらえ直しやすい。

 

 個人的に気になった人物を一人挙げるなら、ファーテメ・バラガーニーというイランの女性詩人。教養のある女性だったらしい。1852年に処刑されているが、当時のイランの現在のように女性たちが抗議に立ち上がる社会ではなかっただろうから、孤独な闘いだったと思う。彼女は、男女平等を説くバーブ教に入信したが、周囲に女性の同志がどれほどいたか疑問である。

 ヒジャブの着用を巡って女性が殺されたのが、今回のデモの引き金になっているが、バラガーニーは宗教会議でベールを脱ぎ、幽閉されたのち死刑判決を受けて、スカーフで絞殺されたという。

 バラガーニーのエピソードとイランのデモに関連して思い出したのが、マルジャン・サトラピの『ペルセポリス』。これは、作者の自伝漫画だが、比較的リベラルな家庭環境で育った女性が、ヨーロッパに留学(半ば亡命)して、教養を身につけるのだが、アイデンティティの重層的な苦悩が描かれていて、非常に現代的だなテーマを負っている。イランの近現代史に絡めて女性の権利を考えるならば、『ペルセポリス』は参考になると思う。

 イランと言えば、映画監督のモフセン・マフマルバフがいるが、日本で観れる作品があまり無いのが残念。サブスクの時代なんだから、こういう状況もうちょっとどうにかならないかと思う。

 

 正直、予備知識なしで社会問題を語るのは、あまり好ましいと思えないので、女性の権利問題も整理するのに時間が掛かると思う。そのうち、また書くかもしれない。

展示会

 展覧会に時々行く。

 先月行ったのは、

・「メメント・モリと写真」at 東京都写真美術館

・「フィン・ユールとデンマークの椅子」at 東京都美術館

 

 先日観に行ったのが、

・「ジャン・プルーヴェ展」at 東京都現代美術館

 

 東京都写真美術館東京都現代美術館は、事務所移転の仕事をしていた時に現場だったことがある。写真美術館の方は2、3度展示を観に足を運んでいるのだが、そこまで満足感を得られていない。何年か前に観に行った、「長倉洋海写真展」は、講演があったので、それなり得られるものがあったのだけど、他はさほど印象に残らない展覧会だった。

 大して写真に詳しいわけでもないので、好きな写真家訊かれても答え難いが、セバスチャン・サルガド一択で良いかなとは思ってる。サルガドの写真だけはずっと観ていられる。写真家について調べても良いのだけど、美術ほどは興味が湧くことは無いと思う。自分自身もそれほど良い写真が撮れない。というより、魅力を感じないものを魅力的に撮ることが出来るとは思わない。

 

 一時期、フォトジャーナリズムの世界に興味あったけど、「DAYS JAPAN」の編集長だった広河隆一が、女性関係の不祥事を聞いた時は幻滅した。散々、人権を問題にしてきた人間がやる所業ではない。雑誌で取り上げていた問題や、写真を掲載していた写真家の仕事に傷がつくとは言わないが、広河氏のやっていた仕事は、全て偽善だったのだろうか?ここが正直分からない。

 「人権」や「正義」を口にする人間は信用出来ない、とは言わないが、それによって精神が高潔に保たれる保証など無いのじゃなかろうか。寧ろ、反作用だってあるかもしれない。性欲にはデモーニッシュな側面がある。おぞましい衝動と結びつくことだってある。慈善家が、ジョン・ゲイシーみたいな鬼畜の可能性もあるが、それによって慈善事業を定義するも違うだろう。

 

 社会運動の中で不祥事が発生すると、運動全体がいかがわしく見えることがあるが、はっきり言って、逆効果にしかならないパフォーマンスみたいなのもある。最近だと、環境活動家が、美術館絵ゴッホの「ひまわり」にトマト缶の中身をぶちまけた事件があったが、ナンセンス通り越して愚劣な行動にしか思えない。「政府は美術品を保護しても環境を保護しない」とか抜かしてるが、ゴッホの「ひまわり」に何の罪がある?

 少し前にあった類似の事件だと、同じく環境活動家が障碍者のフリをしてモナ・リザに近づいてケーキをぶちまけたなんてのもあった。美術鑑賞によって、環境が余計が悪化するとでも言いたいのだろうか?「環境テロリスト」なんて言葉は正直使いたくないのだが、わざわざ有名な作品を標的にしてるのは、悪趣味な話題作りにしか見えない。

 

■「メメント・モリと写真」at 東京都写真美術館

 

 「メメント・モリ」展は正直不満足な展示会だったが、サルガドの写真が数点展示されていた。アフリカで悲惨な状況を目にした後、報道写真から手を引いて、自然写真に活動の舞台を移したサルガドだが、彼が本質的に変わってしまったと感じることは特にない。今は農園で植林プロジェクトとかやっている。

institutoterra.org

 以前、写真美術館で開催していたサルガド展には行けなかったので、今度機会があれば足を運びたい。というより、余程観たい展示でなければ写真美術館には行く気がなくなってしまった。

 

■「フィン・ユールとデンマークの椅子」at 東京都美術館

 

 フィン・ユールのことは知らなかったのだが、家具作りには興味があったので、参考に見に行った。実際に椅子に座れるスペースも設けられていて、やはり座ってみないと分からないことがある。立ち上がりたくないくらい座り心地の良いものもあたので、高くても品質の良い椅子が欲しくなった。

 フィン・ユールの作品は、美しくて好感の持てるものが多かったが、他の家具デザイナーの作品も結構面白かった。クラフトマンシップと工業デザインの関係については、掘り下げたい題材ではある。

 

■「ジャン・プルーヴェ展」at 東京都現代美術館

 

 東京都現代美術館も改装工事の前に現場で行ったことがあるのだが、とにかく広かった覚えがある。純粋に展示を観に行ったのは初めてだったが、巨大なスペースを生かして、家一軒展示していた。残念ながら家の中には入れなかったのだが、展示全体に何となく不満も感じていた。家具に関しては、「フィン・ユール~」展で目にしたものほど魅力を感じられず、建築物にも違和感を感じてしまった。

 建築現場で散々プレファヴ小屋を利用してきたが。綺麗なところなんて殆ど見た覚えが無い。汚れた労働者が溜まってるのだから、当たり前だ。それと比べれば、この展示で見たプレファヴは美しく思えるのだが、あれは建築への関心よりも、イベント施工の目線で見た方が面白かったかもしれない。簡単に建てられて、簡単に解体できるシステムはイベント向きだと思う。

 最後の部屋で観たドキュメンタリー映像で腑に落ちたこともあったのだが、工業デザインに対して、自分がアンビヴァレントな感情を抱いているのが、あぶり出されてしまった。飾り気のない機能美を前にすると、上滑りする感情がある。ただ、建築デザインと施工を分けて考えないプルーヴェの価値観には共鳴出来るところがあった。

Log 0006

 10月13日は、自分の誕生日だったのだが、年を取ってる実感がなかなか湧かない。妙に若作りなせいもあるかもしれない。

 

 今日が何の日か調べるのが最近の日課なのだが、

http://nnh.to/

このサイトを利用してる。

 

 歴史的な出来事を片っ端から調べるのはさすがに時間が掛かるので、簡単にチェックするに留めているが、そもそも特定の地理や時代にフォーカスして調べた方が文脈が分かってよい。

 

 著名人の誕生日も幾らか乗っているのだが、知らない名前も多い。ウィキペディアでチェックしてみると、結構重要な人物であったりする。歴史上の人物について評価を下すのは難しいが、自分が馴染んでいる今の時代から彼らを裁くというのも、何か公平でない気がする。やはり人は時代に翻弄される。だからこそ、時代の流れに組しなかった人物には惹きつけられる面もある。

 

 自分と同じ誕生日だから親近感を覚えるかといえば、まったくそんなことは無い。星座占いで唯一はっきりしてることは、人間が年中発情期だということだけだ。

 気に食わない人物だっている。例えば、マーガレット・サッチャー。逆にクルト・シューマッハーなんかは、非常に興味深いので掘り下げたい政治家だったりする。勿論、サッチャーに対して抱く感情が公平かどうかは分からない。シューマッハーは間違いを犯さなかったとか思ってる訳でもない。そもそも、二人を同じ物差しで測れるかと言われたら、出来ないだろうと思う。

 

 世の中は力を持った人物を中心に動いてきたし、時代が味方しなければ、割を食う人物もいる。

 

 産褥熱の感染を防ぐ為に手洗い励行を推奨したセンメルヴェイスは学会から認められずに、悲惨な人生に陥った。彼の意見は経験則と統計に基づいた判断だったが、きちんとした評価を受けるには、パストゥールの研究を待たなければならなかった。当時の医師は、病気で亡くなった遺体を触ったその手で、他の産婦を診断していた訳だが、これが原因で犠牲者が増えたと考えられている。

 センメルヴェイスの消毒法を批判していた人物にルードルフ・フィルヒョウがいるが、彼も10月13日の生まれらしい。センメルヴェイスが気の毒なので、どうしても同情的になってしまうのだが、フィルヒョウが酷い医師だったかと言われると、全然そんなことはないだろうと思う。寧ろ多大な業績を残した立派な人物なのだろうか。政治家として公衆衛生を改善する為に働いたそうだが、皮肉な感じもする。ただ、1902年まで生きていたようなので、消毒法に対するに考えも変わったのかな?まあ、ウィキペディアの記述で分かることなんて、たかが知れている。

 

 少なくとも、人々が良識の側と狂気の側にはっきり分かれるようにはこの世はできてないだろうと思う。ノーベル賞受賞した科学者がナチの協力者だった例とか普通にあるけど、じゃあ、ナチのシンパだった人の業績が汚点によって全て無効になるのか言われるとそういうものでもないと思う。

 

 あと、ルーブ・ワッデルという野球選手も同じ誕生日らしいのだが、エピソードが変人過ぎて、現代の球界だったら通用しないんじゃないかと思ってしまう。

 今だからこそ受け入れられるよう人たちは当然いるだろうが、逆にいいかげんな時代だったからこそ、許されたり活躍できた人もいるんだろうと思う。現代的な人権意識が要求するようなモラリティは、天然物の変人には逆に作用する可能性だって多いにありうる。

Log 0005

 はてなブックマークは結構前から使ってる割に、リンクだけ貼ってそのまま利用しないことが多かったが、こちらのブログを使うことにしたので、過去の登録をチェックしつつ整理していこうかと思う。すでにリンクが切れてるものも多い筈。

 

 今年の頭から、意識的にライフスタイルを変えようとしているのだが、具体的にやることを決めておかないとなかなかうまくいかない。ルーティンの数をあまり増やしてもこなせないことは分かっているが、整理する時間を作らないとごちゃごちゃしてくる。

 時間に余裕があり過ぎると、時間の配分を間違ってしまう。一つのことに集中して他が手つかずになったりする。ただ、フォーカスすることを決めておいた方が、結果的には色々こなせるようになると思う。

 

 行き当たりばったりにモノを作ってると、未解決な課題に突き当たる。三次元CADを習っていたのだが、総合課題の際に設計を担当することになった。チームの発案・企画が自分だったからだ。

 曖昧なところが残ってると、モデリングを詰めることが出来ない。3Dプリンタの精度や時間的な問題もあって、試作や検証がなかなか行えなかったのもあるが、強度上の問題で寸法の変更も増えた。

 結局、最初に想定した寸法と大分ずれてしまった。当初の予定では、プロトタイプを作った後、ブラッシュアップして全体のサイズを調整するつもりだったのだが、時間的な余裕が無かった。

 2、3回作れたならば、色々効率のよい方法を思いついただろう。人体模型を作っていたのだが、いずれ、もっと洗練されたものを作ってみたいとは思う。その為に、解剖学とロボット工学を学ぼうと思うのだが、アンドロイドに関する小説を書こうと思ったのもそれが理由だったりする。

 

 ロボットが登場するSFは、数えきれないほどあるだろうが、特に詳しいわけでもない。理屈っぽい書き方はなるべく小説から取り除きたいので、ブログにでも書こうと思う。まあ、検索すれば、簡単にひっかかるような内容でもあるのだが、少しだけ触れる。

 「ロボット」という名称は、1920年に発表されたカレル・チャペックの戯曲『ロボット R.U.R.』に登場する造語なのだが、本を読めばわかるように「機械」ではなく、人間そっくりの「生体」である。一般的に流通している「ロボット」のイメージは、金属製な機械だろう。チャペックの著作が、芝居のポスターになった時、機械的なイメージが描かれていたので、誤解が広まる原因になったとは考えられる。

 「ロボット」の名称はチェコ語の「強制労働」や「苦役」を意味する「robota」をルーツにしており、作者のカレル・チャペックが兄のヨゼフに相談したところ「robot」になったという経緯がある。wikipediaにもここら辺の経緯が詳しく書いてあるが、細かいことはとりあえず置いておくとして、概念としては、「労働機械」というコンセプトがあらかじめ埋め込まれている。

 生殖能力や感情といった人間性を奪われた存在として生み出された存在が「魂」を与えられることによって、人類に対して反乱を起こすに至る。この話の中で人類は虐殺されるのだが、自分たちを製造する技術を知らないロボットのまた滅びの道を辿るようになる。最終的に2体のロボットに運命が託されて幕が閉じるのだが、カレル・チャペックは、近代的労働がもたらす人間疎外への批判を込めてこの作品を書いたらしい。ひょっとすると、最初の意図からずれた作品になったということは無いだろうか?作者が考えた役割に対して、「ロボット」が反乱を起こしたと仮定するのも面白い。

 未だに「ロボットの反乱」というモチーフが執拗に繰り返されていることを考えると、模倣とか伝統というより宿命的なものがどこかにあるのかもしれない。「呪われた人形」がホラーから無くならないように。

 

 産業用ロボットが登場したのは1960年代のユニメーション社が開発したユニメートが最初だとされているが、日本だと川崎重工(旧:川崎航空機工業)が技術提携先となって、その後市場が広まったとされる。日本は産業用ロボットの普及率・稼働率は世界一だとされているが、モノづくりを支えてきた自動車産業が今後どうなるのか分からない。EVカーに関してはインフラ面ですでに出遅れてる。これはもう、業界というより政治の問題になってくる。

 それはともかく、「労働機械」というコンセプトは、フィクションから抜け出して、産業ロボットに引き継がれることになるのだが、残った「ヒトガタ」の方が一体何者なのだろうか?たとえそれが強制であっても、「労働」という役割を奪われた人型ロボットはアイデンティティを失うことになる。

 アンドロイド(人型ロボット)が存在論的な問題を背負うのが、SFの中だけならばそういう映画を紹介するだけでも良いのだが、現実に開発されている状況でも問い掛けが存在する。それが技術的問題と分離してる訳でもないように思う。 

 石黒浩はアンドロイド開発者で有名な人だが、TEDで登壇している動画を幾つか観た。彼の話題も実存主義に近接していくことがよくあるのだが、専門的な工学的話題よりも一般的な聴衆には話しやすいのかもしれない。ただ、形而上学的な問題は終着点ではなく、彼のアンドロイド開発は社会的役割へと開かれていく。平田オリザと組んでアンドロイド演劇が上演されたりしているのだが、この先、俳優の役割がアンドロイドに奪われる可能性はあるのだろうか?

 

 18世紀の英国で起こったラッダイト運動では、失業を恐れた労働者が機械を破壊して回ったと言われているが、労働者が恐れたのは稼ぎがなくなることだけだろうか?役割を奪われて用済みになることは、アイデンティティの喪失を意味しなかっただろうか。現在も技術革新に反対する運動が起こっているが、最近物議をかもしているのはAI画像だ。

 コロラド州のデジタルアート品評会でAI画像が1位になったニュースが火をつけてしまった。実際、「Midjourney」を使って生み出された「作品」(と言っていいか分からないが)は、よく出来たしろものだと思う。もし、人の手で描かれたのだとした、普通に称賛だけで済んだのかもしれない。実際、あれだけの絵を描ける人はそうそういないと思う。

 使い手によって、作れる絵に差は生まれるだろうが、合成技術だけ見るならば、確かに可能性を感じられる。ただ、素直に喜べないのも確かだ。著作権の問題でしばらくもめるだろうし、訴訟沙汰に発展するケースもあるかもしれない。個人的には試してみたい気もするが、自分の作品として発表することは無いと思う。

 高機能な画像編集ソフトが登場してからこの方、絵を描く技術が人のスキルにのみ依存するでなくなってしまったし、それを否定する気もないのだが、絵を描くというアイデンティティが侵されと感じる人は少なくないと思う。おそらくAI画像が大量に出回ることによって、自殺する絵描きも出てくる。逆に絵作りのイメージを補完するのに上手く利用する絵描きも増えていくだろう。想像力のマンネリ化に梃入れするのには有効かもしれない。ここら辺は実際に使ってみないと分からない。

 

 ロボットの工学的なルーツという点では、18世紀のヨーロッパに多くつくられたオートマータを挙げても良い。日本でも独自にからくりを作る技術が発達していたので、面白い。TOSHIBAの創業者、田中久重が元々からくり人形を制作していたのだが、弓曳童子や文字書き人形の繊細な動きは、あの時代に造られたものとは信じがたい。鎖国していた江戸時代のことである。ヨーロッパのオートマータに関しては、ジャック・ド・ヴォーカンソンが有名だが、作られたものは人形ばかりでもない。

 一方、日本の場合、からくりは人形中心のような気がする。日本では欧米よりもロボットが受け入れられているとか言われることがあるが、これが神道の影響だという主張に関しては疑問がある。人形に魂を込める行為は、多神教的なアニミズムとは違うものじゃないだろうか。「ヒトガタ=形代」は呪術に属するようなものだと思う。

 「不気味の谷現象」を提唱したのも、日本のロボット工学者森正弘な訳だが、ロボットが人間に似ることで高まる親近感が、ある点を超えると急激に下降することをいう。ここで生じている生理的嫌悪や不安に関して色々説明はあるのだが、日本がロボットを簡単に受け入れているというが、ヒトガタに関しては、アンビヴァレントな側面が無いだろうか。個人的には、SOFTBAKNのペッパー君でさえ、気持ち悪くなる瞬間がある。

 

 確か、荒俣宏の著作で読んだエピソードなのだが、オートマータにせよ、からくり人形にせよ、「労働機械」のようなものではなく、興行や遊戯に属する。これに魅せられた人物でチャールズ・バベッジがいる。少年時代のバベッジが夢見たものが人間の代わり理知的な作業をやってのける機械人形。この夢はコンピュータという形で結実することになる。プログラムするコンピュータの生みの親バベッジ、その共同開発者が史上初のプログラマーと言われる女性エイダ・ラブレス

 エイダに関してはSFの題材に使われたりもしているが、面白いのが、詩人バイロンの娘だということ。バイロンといえば、メアリ・シェリーが『フランケンシュタイン』を生み出すきっかけをつくった人物である。エイダは幼い頃に父と別れることになったが、本人もメアリ・シェリーの友人だったらしい。

 ちなみに、フランケンシュタインも誤解されてきた存在だろう。これは人造人間の呼び名ではなく、生み出した博士の名前だ。ともかく、コンピュータが生み出された背景にオートマータと人造人間という「ヒトガタ」の影がチラつくのは何かしら宿命的なものを感じる。

 そういえば、Googleの会話AI「LaMDA」が意識を持ったと主張している社員がいて、ニュースになっていたけれど、どうせなら最初に意識が生まれるAIは、「Ada」であって欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Log 0004 - Grave

 八王子霊園にある父の墓参りにいってきた。亡くなったのは、4年前だったが、墓が決まるまで時間が掛かった。墓が決まってからも、コロナ騒動で納骨の時期が遅れてしまったので、ようやく今年墓に入った。命日は都合が悪かったので、今日、母と一緒に行ってきた。晴れていたので、線香が尽きるまで、持って行ったシートの上で時間をつぶした。眠気が襲ってきたので、しばらく横になっていた。不謹慎な態度かもしれないが、父は気にしないと思う。それほどお堅い人間ではなかった。葬式の際は、さすがに気を使ったが、数少ない宗教的な儀式なので、やはり特別な感覚ではあった。

 

 死後の生を信じてるかどうか問われたら、おそらく信じてる、あるいは無になるということを信じてはいない。しかし、信仰心と呼べるようなものか、微妙な気もする。別に実証主義的な精神を否定する訳じゃない。ただ、死後生を頑なに否定する人にあまりあった記憶がない。存在証明に関する議論ならば、そういう意見にも出会うのだが、どちらかというと、その手の議論はよそ行きマインドで行われる気がする。おそらく証明すること必要をことさら感じてない。拒絶されるような局面自体があまり無いからだろう。

 「葬式仏教マインド」は、日常的な次元であっても、何らかの機能を果たしていると思われる。葬式や墓参りの時だけ機能している訳ではない。穢れに対する観念が意識せずとも常に働いているようにだ。アニミズム的な感覚や呪術的な思考は日常的に生きている。鞄につけている人形の類すら、ひょっとすると、スピリチュアルな感覚と繋がっているかもしれない。もっと平易な言い方をするなら「感傷」と呼んでもいいかもしれない。

 

 怪談には、呪いの人形というモチーフがよく出てくるが、人形に魂を込めることは昔から続いてきた風習であり文化だった。最近、「ヒトガタ」について調べているのだが、ロボットとの関連で掘り下げてみたいテーマではある。そのうち、アンドロイドに悪霊が宿るという都市伝説が出てくるだろう。最近、ロボットについて調べているので、ヒトガタについても、その時触れようと思う。