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ジェンダー

 女性の権利に対する意識が高いのかといえば、特別そんなことは無く、性的マイノリティに対する言論への違和感から、関心を持った面がある。以前、書いたが「LGBT---」というまとめ方がしっくりこないのだが、どうにも杜撰な心理学的アプローチのせいで、用語ばかりが独り歩きしている。

 問題が解決しないまま、ノンバイナリーだのAセクだのジェンダーフルイドだのといった用語が増えていく状況にある中で、パーソナリティの形成や科学的知見の蓄積抜きで無暗にそうした概念に飛びつくのは、開明的態度というより、知的怠惰じゃないかとすら思う。しまいには、性自認の自己申告に自意識過剰なナルチシズムすら嗅ぎ取ってしまう。性的指向の神聖化は無意味である。

 

 トランスジェンダーの受容を巡って実際に起こっているトラブルは、主に女性のテリトリーに関わる問題が多い。何年か前にトランス差別的言動を巡る言動から、J・K・ローリングが叩かれていたが、「トランス排除的ラディカルフェミニズム」という用語を耳にする機会はそれほどない。これが蔑称だとして、「ジェンダー・クリティカル」が自称されることもあるようだが、問題の要点は、「女性の定義と権利」にある。当然ながら、権利の受容は定義によって変わる。

 手術後、性別の変更が可能な法律があると、女性としての権利を要求するトランス女性が出てくるのは必然なのだが、法律に絶対的な意味はない。

 「性自認」というのは、他者の懐疑心を封じ込める魔法の言葉か何だろうか?人の在り方として受け入れるかどうかはともかく、トランスジェンダーを自認していた人が、手術をした後に、実は「性自認」が勘違いだったケースを考えると、人生を狂わせる危険性すらあるかもしれない。

 子供の頃、ニューハーフブームが短期間あったと思うが、その頃の方が今よりも緩い空気だったと思う。メディアが比較的キレイな人を取りあげていたせいもあったのだろうか。最近は、ルッキズムに関してもごちゃごちゃ言われるようになってきたが、外見が重要な判断基準になることの反証とも言える。

 

 現在は、「性別適合手術」と呼ばれているものも、かつては「性転換手術」と呼ばれていた。子供の頃は、無知だったので、本当に性別が切り替わるものと思っていたが、実際のところ、手術によって身体的性別が完全に異性に変化することはない。そのうち遺伝的レベルで染色体すら変更出来るようになるかもしれないが、そのうち可能になるという保証もない。医療技術の発展によって、可能になることも増えるだろうが、現時点では、手術後に元に戻す技術すらない。「男性」の身体になっても生理が残るし、

 手術をする前に、異性として生きるシミュレーションが経験出来れば、リスクは軽減出来るかもしれない。演劇方面からアプローチ出来ることが無いだろうか?そもそも人のメンタリティなんて立ち位置で変わってしまうのだ。憧れたものが想像通りとは限らない。そもそも性分化の過程が生後10年以上続くことすら周知されていないのであれば、医学的教養の一般レベルを引き上げた方が良くないだろうか?

 

 「LGBT」ムーブメントの傍流で演技に関して当事者が演じるべきだという主張がされることがあるが、これに関しては賛同しかねる。演劇理論自体が複数あって、それぞれ利点も欠点もあるだろう。メソッド演技のリスクが指摘されることも増えてきたが、当事者が演じなければならないとしたら、レイプ殺人鬼の役なんかは、本物の犯罪者を起用することになる。さらに理論をブラックユーモアでごり押しすると他殺体は他殺体が演じるべきなので、スラッシャー映画はスナッフフィルムになってしまう。

 勿論、当事者が演じることで説得力が生まれることはあるだろうが、「当事者が演じるべき」という強制命題になると、アンドロイドと人が役割を交代して演じることも出来なくなる。芸術論や文化がポリコレ論に引っ掻き回される状況がここ数年続いているが、表現規制に関して「フェミニズム」からのクレームが物議をかもすことも少なくない。

 

 現在のフェミニズムを巡る言論空間で混乱と対立が生じている上に政治的イデオロギー闘争まで投影されているせいで色々面倒くさいことになっているが、それらを「多様性」というキーワードでお茶を濁すのは、一種の問題回避じゃないだろうか。とはいえ、現在の「女性観」が統一性を失いつつあるのは、女性の人権が向上した結果かもしれない。自由度が増した分、統御も失われる。

 「男性らしさ/女性らしさ」、この言葉にいちゃもんをつける人も増えてきたが、実のところ反動的な保守性も生じているように見える。歴史的に差別されてきたからといって、女性の大半が性差の消滅を心の底から望んでいるのか疑問に感じることだってある。肉体労働の現場で女性が現場に入ることもあったが、キツイ重労働は任せづらい。筋肉ムキムキのゴリラみたいな女ばかりならば、遠慮しなくても済むのだが、貧弱な身体つきの女子なんかはマジで扱いに困る。一度、パティシエの子にあったことがあるが、人手不足を埋める隙間産業の日雇い派遣業界はミスマッチな手配がなくならない。  「社会的分業」に性差を持ち込むとクレームが出るのだが、正直ゼロを目指す必要はないと思う。異性を排除しないことと男女比率を強引に操作することは別である。評価が公正であれば、男女比に拘る必要はない。

 科学の世界だと不当な評価をされてきた女性研究者が大勢いるが、フェミニズム視点の抗議より、業績の正当な評価こそが望まれる。ロザリンド・フランクリンに名誉を与えるのは、彼女が受けた差別ではなく、その研究内容である。ヘンリエッタ・リーヴィットが気になるのは、天文学に対する彼女の貢献に興味があったからだ。

 

 第一次世界大戦時に大量の男性が動員された為、女性が労働力として駆り出された結果、女性の人権が向上した経緯があるが、国際的な女性解放運動は分断されることになった。歴史的に言って軍事が常に女性の地位向上を助けてきたかと言えば、おそらくそんなことはない。

 アメリカでは女性兵士が増えているようだが、徴兵制のある韓国では女性に徴兵制が適用されないことに不満を抱える男子が増えていると聞く。日韓併合時代の従軍慰安婦問題が政治問題化されるほど、米軍慰安婦は問題にされていないのは、それこそ政治的理由だろうが、そもそも女性の権利が軽視されてきた事情を見ると、フェミニズムの観点から掘り下げた方が見えてくるものが多いかもしれない。

 

 そういえば、最近も自衛隊内の性被害事件(冤罪)が話題になったが、罪を着せられた男性隊員に同情してしまう。あの冤罪事件は、近年流行した#MeToo運動の流れに呼応した形なのかもしれないが、結果として泥を塗ることになったのかもしれない。「性被害」に作り話が混ざっている可能性が浮上してくるからだ。

 ジャーナリストの伊藤詩織が起こした訴訟は、性的暴行に関わるものだったが、相手が安倍総理に近い人物だったせいで、初期は政治問題の文脈で語られることが多かった。当時の自分は政争の言論空間に食傷していたので、この訴訟に関しても距離を置いてみていたのだが、係争中の案件についてどれだけ口を出していいのか未だに分からない。

 元しばき隊の菅野完の案件や都知事選の時に話題になった鳥越俊太郎の女性問題なども政治的次元に還元されることが多いが、政治的バイアスがかかると問題の本質からずれることがある。結果として、極分解する政治的言論から距離を置くことになったが、それ自体は良かったと思う。

 相模原障碍者施設大量殺人事件が起こった時、植松聖が安倍晋三に宛てた手紙が話題になったが、それを根拠に政治的なヘイトクライムと見做す向きがあった。文章を読んだ所感としては、思い込みの激しいイかれた思考に陥っているだけで安倍首相は本質的に関係ないという感想だった。

 その安倍晋三も殺された訳だが、あの暗殺事件も初期は政治的バイアスで語られることが多かったように思う。今は自民党統一教会の関係に話題がシフトしていったが、認知バイアスの歪みに気を付けていないと、色々と拗らせるだけである。

 

 ジェンダーの問題から反れてしまったが、ついでなので今度の新宿区長選について触れておこう。立候補したよだかれんが「トランス女性」だからだ。候補者が二人しかいないので、比較はしやすい筈なのだが、自分にとってはトランスジェンダーは困惑する要素なので、一種のノイズに思えた。政治的立場も多少はチェックしたが、そもそもシンパシーより議論に重点を置く体質なので、政策だけ見ても、もはやピンとこないのである。区の業務を一人でこなす訳ではないし、どのみち、どんな仕事もすり合わせは必要なのだ。宇都宮けんじが応援してたので気にはなったのだが、今回は投票しなかった。

 一方、吉住健一のことをよく知っているかと言われたら、そうでもないのだが、よだかれんがトランス女性ではなく、女性だったら投票した可能性がなかったのか考えてしまう。これは在り得たかもしれない。

 最初の方で触れたが、トランス女性に一般女性のテリトリーに侵入する権利があるのか疑問であり、政治的要請によって女性のテリトリーが荒らされる可能性が頭をよぎった。元々、セクシャルテリトリーは、生物的性別に依拠しているのであって、内面の問題に還元して合理化するのは限界があるのではないかと思う。女性が誰も気にしないで受け入れるような社会であれば、トランス女性のことなど気にする必要はないのだが、苦情に道理がないかと言えばそうでもない。

 こういう書き方は、「トランス排除的」と言われるだろうが、正直言って、トランス女性を女性とみなしていないので、あえて否定する気もない。トランス女性の中にも完全に女性になれる訳ではないことを受け入れている人たちがいるので、ユニバーサルトイレのように緩衝地帯になりうるグレイゾーンが必要になるのかもしれない。

 

 本来、性別だけで投票を決める趣味は無いのだが、今度の区長選は、選択肢が少なすぎる割に、バランスが悪くないだろうか?いっそ、宇都宮けんじ自身が立候補してくれた方がマシだったかもしれない。もはや、彼は高齢過ぎて、次の都知事選に出馬しても投票する気になれないからだ。

 よだかれんの事務所の所在地が地元の高田馬場なので、どこかで見かけることもあるかもしれないが、話したことも無いので本人の人柄など判断しようがない。別にことさら侮辱を加える気もない。気になったのは、経済学者の安富歩と親交があるということ。

 安富歩もトランス女性(手術の有無は不明)で、いつだったか、それについて書いてた本人の記事を読んだ記憶があるのだが、「性別適合手術」という呼び方や「生殖能力」がないことに関連付けて、「トランス女性=女性」という点に疑問を呈していたと思う。おそらく本人も葛藤があるのだろうが、問題は「差別」なのだと。

 例えば、政治的立場をチェックシートを使ってマッチする候補者が選ばれるよう仕組みであれば、名前も顔も性別も要らないことになる。社会心理学の実験としては、面白いかもしれない。おそらく、候補者を選択する時、政策以外の要素が判断基準として強く働いているだろうから。実際のところ、候補者を正確に比較することは不可能かもしれない。

 

 性スペクトラムの問題はもう少し踏み込んでも良いのだが、後回しで良いと思ってる。教養課題としてはフェミニズムの方が優先度が高い。

 #MeToo運動に関連した著作で『男性性の探求』(ラファエル・リオジエ著)という本を最近読んだのだが、ところどころ引っかかるところがあって、シンパシーよりも疑問が多く残ってしまった。訳者も触れていたが、西欧流の普遍主義についての苦情は尤もに思えた。いや、正直言いうと『ファイト・クラブ』の去勢コンプレックスの方にシンパシーを感じる自分がいるのだ。

 反動なのか分からないが、日本のジェンダー史に興味が移ったので、『性差の日本史』という新書を読んでみた。男女平等だった古代から中世の儒教・仏教の影響による男尊女卑の導入、近世に入って芸能から女性を排除した経緯など、欧米の文脈で語られるフェミズムとは違った掘り下げ方が出来ると思う。

 近代化と結びつけられることもある女性解放だが、産業革命による分業体制は、それまで協業だった農民の生活に、ジェンダー差別を生み出したとも言われる。社会的・政治的制度によって生じる構造は、「男性」の意識を変えることで男女格差が解消改されるなどと期待しない方が良い。権力構造は、階級社会の問題でもあるからだ。下層階級は暴動かストライキでも起こさない限り無力である。クーデターや革命によって、世の中が良くなる保証も無い。ウガンダのイディ・アミンのように革命家が最悪の独裁者になることだってある

 

 政治的次元で男女の格差是正措置は必要かもしれないが、階級的経済格差を無視して男女差別だけフォーカスすると下層のルサンチマンはかえって拗れることにならないだろうか。フェミニズムの歴史でも、経済的分断や人種的分断が割り込んでくることがある。

 フランス革命期のフェミニストにオランプ・ド・グージェがいるが、彼女の場合、身分階級に関しては保守的な考えの持ち主だと言われている。「普遍的人権」から締め出された女性に関して権利を主張したことはともかく、下層の女性が味わう辛酸について想像したことが無かったのだろうか?

 「普遍的人権」と「経済的不平等」の不均衡な関係は今でも再生産されているように見えるが、コロナ禍の日本で若い女性に貧困の問題がのしかかっていることを考えると、フェミニズムの内輪もめも違ったベクトルに向かえば良いと思う。法が権利を保証しても貧困は自由を打ち消す。残念ながら、それが現実だ。

 女性解放闘争の方法論をめぐってフェミニズムの歴史でも分断はあった訳だが、女性参政権を求めて過激な闘争(爆弾テロなど)を行ったエメリン・パンクハーストを描いた映画が気になっている。『未来を花束にして』。

 

 現代の女性について考える資料としてなかなか面白いと思った本を一つ紹介。

 

■『話すことを選んだ女性たち 60人の社会・政・家・自立・暴力』

アナスタシア・ミコバ、ヤン・アルテュス=ベルトラン

 

 この本に統制された女性観のようなものは無いのだが、それぞれの女性が生きてきた背景や社会的条件の中で形作られる価値観が個人の言葉を通して述べられている資料はは意外と少ないかもしれない。のっぺりした理念からは決して見えてこない実存的響きが感じられる。複数の声は必ずしも同調する訳ではないが、結局のところ不条理な世界に生きているのだから、思考だけ整理しても何かが解決するわけではない。