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女性の権利とその周辺

 最近やたらとLGBTのことが話題になるが、トランスジェンダーの受容をめぐって、少々混乱した状況になっている。個人的に腑に落ちないことも多いので、少し整理しようかと思っていたが、それほど詳しくも無いので、とりあえず、フェミニズムの歴史を軽く掘り下げてみようかと思う。

 トランスジェンダー批判の一つとして、女性の権利が侵害されているというものがあるが、「男と女」という伝統的な境界線上でノイズになっているのは間違いない。「トランス排除的ラディカルフェミニスト」(TERF)という用語はそれほど一般に浸透してはいないが、実を言えば「LGBT」という用語もしっくりこないのだ。

 LGBは性的指向によって定義されるが、Tはそうではない。パーソナリティの要素ではなく「人」を指すものとして扱えということなのだろうが、そもそも、LGBの中にトランス傾向のある人とそうでない人がいると思われる。最近はあまり使われないが、「オカマ」という用語はゲイと「トランス女性」両方を含んでいたように思う。厳密に分けないのがおかしいというより、混ざりあっていたと見るべきか。

 

 現在、スポーツ界で問題視されているのが、女性の競技における「トランス女性」の参加をめぐる問題。擁護と排除の両方が存在するが、業界全体が戸惑っている状況だと思う。血清中のテストステロンが基準にされたりもするが、これもどうなんだろうと思う。「性別適合手術」というのは、一種の成形手術であって、染色体も生殖能力が異性に変化することを意味してはいない。あれは言わば「擬態」である。そのうち、遺伝的レベルの改造手術も可能になるかもしれないが、現時点では違う。

 テストステロンが公平さの絶対的基準になるなら、科学的な検査で階級分けするのが一番合理的という話にならないだろうか?ひょっとしたら、将来的にはそういう可能性も出てくるかもしれない。

 

 そもそも、男女の競技が分かれているのは、差別的措置である。「区別」ではない。男女の身体的な能力差を「前提」としているからだ。ただし、その目的は「公平さ」にある。「公平性の為の差別的措置」と書くと何やら矛盾した響きだが、格闘技における階級差なども、一種の公平性を志向している。競技なんだから、闘って優劣を決めればいいという主張も可能だろうが、細分化によって活躍の機会が与えられる選手も当然いる。

 確実に不利な競技で体格差や階級差を撥ね退けるような活躍が痛快なのは、困難なこと成し遂げているからこそだ。

 

 ジェンダーレス志向の言説には、生来的な男女差というものを否定したがるものも混ざっているが、「身体的性=SEX」が「文化的性=ジェンダー」によって規定されたフィクションに過ぎないとすると、そもそも競技を男女で分ける必要が無いことにならないだろうか?スポーツは本質的に差別的ベクトルが存在する。だからこそ条件の公平さが問われる。

 

 古代オリンピックの場合、男しか参加出来ない祭典だが、言うまでもなく男尊女卑である。古代ギリシアで同性愛(少年愛)が盛んだったことを考えると、ゲイの選手も参加していたと思われる。

 近代オリンピックでも、女性の参加が認められたのは、第2回からで、それも初期に参加できる競技は今よりもはるかに少なかった。とはいえ、これはスポーツという枠で考えることではない。

 

 女性の権利闘争に関する入門書で『ウーマン・イン・バトル』という漫画があったので図書館で借りてみた。政治にさほど関心が無い人やあまり読書しない人でも気軽に読めると思う。全然知らないよりは読んだ方が良いと思う。特に女性は。重大な政治問題より美容に気を遣うような女性が多いのでは、闘って権利を勝ち取った先人は報われまい。

 

 サフラジェットなんかは、過激な社会運動が持つ意味について疑問も感じてしまうのだが、イギリスで女性参政権が成立するまでの社会的な動向として外せない話だとは思う。まあ、女権運動のパイオニアは多かれ少なかれラディカルだったろうと思う。

 女性参政権の成立についてには、各国でばらつきがあるが、100年経過してない国の方が多い。漫画にも描かれていたが、タリバン支配下アフガニスタンのように後退することもある。

 女性の権利の後退というのは、先進国でも絵空事ではない。「カトリックVSリベラル」、「共和党VS民主党」といったイデオロギー闘争のように語られることが多い中絶禁止問題だが、マーガレット・サンガーのエピソードを読むと女性の権利という形でとらえ直しやすい。

 

 個人的に気になった人物を一人挙げるなら、ファーテメ・バラガーニーというイランの女性詩人。教養のある女性だったらしい。1852年に処刑されているが、当時のイランの現在のように女性たちが抗議に立ち上がる社会ではなかっただろうから、孤独な闘いだったと思う。彼女は、男女平等を説くバーブ教に入信したが、周囲に女性の同志がどれほどいたか疑問である。

 ヒジャブの着用を巡って女性が殺されたのが、今回のデモの引き金になっているが、バラガーニーは宗教会議でベールを脱ぎ、幽閉されたのち死刑判決を受けて、スカーフで絞殺されたという。

 バラガーニーのエピソードとイランのデモに関連して思い出したのが、マルジャン・サトラピの『ペルセポリス』。これは、作者の自伝漫画だが、比較的リベラルな家庭環境で育った女性が、ヨーロッパに留学(半ば亡命)して、教養を身につけるのだが、アイデンティティの重層的な苦悩が描かれていて、非常に現代的だなテーマを負っている。イランの近現代史に絡めて女性の権利を考えるならば、『ペルセポリス』は参考になると思う。

 イランと言えば、映画監督のモフセン・マフマルバフがいるが、日本で観れる作品があまり無いのが残念。サブスクの時代なんだから、こういう状況もうちょっとどうにかならないかと思う。

 

 正直、予備知識なしで社会問題を語るのは、あまり好ましいと思えないので、女性の権利問題も整理するのに時間が掛かると思う。そのうち、また書くかもしれない。